2017年1月17日火曜日

種子島の女殿様「松寿院」


昨年末、西之表市出身(住吉)で、兵庫県伊丹市にお住まいの主婦田村きよ子さんが、種子島の女殿様「松寿院」の紙芝居を作成し、西之表市教育委員会に寄贈されました。

経緯について、田村さんが種子島に帰省した際に月窓亭を訪れ、
村川元子さんの著書「種子島の女殿様 松寿院」を購入されました。
著書をお読みになり、大変感激されたことがきっかけで
著者の村川さんと連絡を取り合い、紙芝居を作る運びとなりました。


松寿院が成し遂げてきたことが、子供たちにも伝わりやすいように、
温かい描写で表現されています。

今後、種子島のあちらこちらでこの紙芝居が広まってゆきますように。


「松寿院」について

寛政9年(1797年)生まれ ~慶応元年(1865年)没
種子島家第23代当主・種子島久道の正室。
父は薩摩藩主、島津斉宣。母は側室(家臣・島津仲久隣の娘)
兄に島津斉興、弟に島津忠公、妹に随姫(佐土原藩主・島津忠徹室)、郁姫(近衛忠熙室)
実名は「隣姫」「於隣」、別名「御隣の方。
夫が文政12年(1829年)に死去。その後、落飾して「松寿院」と号した。

隣姫と久道には後継がいなかったため、室町時代より種子島を治めた種子島家は事実上断絶。
それにより男子後継者を欠いた種子島氏は取りつぶしの危機に陥る。
これを救ったのが隣姫である。隣姫は早急に養嗣子の要請を実家・島津家に行うと共に、実家からの指示で久道の名跡となって種子島を治める事となった。
久道の死から15年間は隣姫が種子島領主となり、領民を治めた。

久道の死から15年後の天保13年(1842年)に、ようやく島津家より養子・久珍(島津斉宣12男)を迎えるも、久珍は嘉永5年(1852年)に死去。
久珍の子・久尚はまだ幼かったため、ふたたび松寿院が久尚の後見という形で種子島を治める事となった。
松寿院は手始めに大浦川の改修工事、島の玄関である西之表港の防波堤整備種子島家累代の墓所整備慶長の役や藩に仕えて亡くなった無名の人々の供養学問所の建築や学用品の授など、領民の生活を守るために奔走した。
また松寿院が大浦荒地に創設した塩田創業は種子島に大いなる利益をもたらし、第二次世界大戦後まで続いた。他にも19代当主・種子島久基が始めた「かんしょ栽培」の功績を称える神社の建立➡栖林神社なども行っている。
慶応元年(1865年)8月20日に久尚とその家族に見守られながら種子島で死去。享年69。
墓地は種子島家の菩提寺である本源寺にある。

↓「松寿院」肖像画 (作画 村川元子氏)

種子島家第28代当主、種子島時望様のご息女、村川元子氏の著書
「種子島の女殿様 松寿院」
書店や当館にて好評発売中です。

松寿院のひたむきな生き様、そして、種子島の歴史を知る上で是非読んでいただきたい名著です。


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